ごあいさつ

2020年、株式会社小林は創立100周年を迎えました。

薪や木炭が主な燃料だった時代にスタートした、私たちのライフラインであるエネルギー供給事業。

燃料の進化とともに私たちも進化をし続け、

1世紀にわたり地域の生活と産業のライフラインを支えてまいりました。

今、100周年を迎え、

私たちの「はじまりのとき」を振り返ります。

絹織物で栄えた川俣町

 小林の創業は今から100年前の1920(大正9)年。その2年前に第一次世界大戦が終わり、世界経済の中心はロンドンからニューヨークのウォール街に移っていました。大戦景気に沸いたアメリカでは大衆の生活も一変し、自家用車やラジオ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が普及し、大量生産・大量消費の生活様式が急速に確立していきました。また、世界で2億人が感染したとされるスペイン風邪が猛威をふるったさなかでもありました。

※鉄炮町の賑わい

絹織物で栄えた川俣町

※鉄炮町の賑わい

 小林の創業は今から100年前の1920(大正9)年。その2年前に第一次世界大戦が終わり、世界経済の中心はロンドンからニューヨークのウォール街に移っていました。大戦景気に沸いたアメリカでは大衆の生活も一変し、自家用車やラジオ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が普及し、大量生産・大量消費の生活様式が急速に確立していきました。また、世界で2億人が感染したとされるスペイン風邪が猛威をふるったさなかでもありました。

※明治末期の川俣座(映画館)

 では福島の100年前はどんな時代だったのでしょうか。福島市が生んだ大作曲家・古関裕而がモデルとなったNHK朝ドラ「エール」の前半では、まさにその時代の伊達、信夫地方(現在の福島市)が描かれています。主人公古山裕一(古関裕而)の母の実家が川俣町の資産家という設定。裕一の母は福島の老舗の呉服屋に嫁ぎ、裕一と弟が生まれました。

 ドラマでは母に連れられ、裕一少年が実家に遊びに行くシーンがあります。町には外国人の姿もあり、教会や映画館もあり、活気あふれる賑わいを見せていました。

※明治末期の川俣座(映画館)

 では福島の100年前はどんな時代だったのでしょうか。福島市が生んだ大作曲家・古関裕而がモデルとなったNHK朝ドラ「エール」の前半では、まさにその時代の伊達、信夫地方(現在の福島市)が描かれています。主人公古山裕一(古関裕而)の母の実家が川俣町の資産家という設定。裕一の母は福島の老舗の呉服屋に嫁ぎ、裕一と弟が生まれました。

 ドラマでは母に連れられ、裕一少年が実家に遊びに行くシーンがあります。町には外国人の姿もあり、教会や映画館もあり、活気あふれる賑わいを見せていました。

 川俣は古くから養蚕と絹の産地として発展していました。阿武隈川沿岸の地質は病気に強い蚕が育ちます。江戸時代から品種改良が行われ、養蚕技術の改良も進み、明治期には福島の養蚕業は長野、群馬に次いで国内3位。養蚕技術を伝える伝習所(学校)まで作られ全国から生徒が学びに来ていたのです。

※養蚕技術を伝える学校の様子

※養蚕技術を伝える学校の様子

 川俣は古くから養蚕と絹の産地として発展していました。阿武隈川沿岸の地質は病気に強い蚕が育ちます。江戸時代から品種改良が行われ、養蚕技術の改良も進み、明治期には福島の養蚕業は長野、群馬に次いで国内3位。養蚕技術を伝える伝習所(学校)まで作られ全国から生徒が学びに来ていたのです。

※福島と伊達を結んだ「経便列車」

 さらに、明治39年には川俣町の大橋兄弟が開発した動力織機のおかげで、当時国際的価値の高かった「羽二重」の量産に成功、国内有数の織物の町になっていました。絹長者たちが次々生まれ、福島と伊達郡の主要地域は「経便列車」で結ばれ、活発な経済活動が行われていました。

※福島と伊達を結んだ「経便列車」

 さらに、明治39年には川俣町の大橋兄弟が開発した動力織機のおかげで、当時国際的価値の高かった「羽二重」の量産に成功、国内有数の織物の町になっていました。絹長者たちが次々生まれ、福島と伊達郡の主要地域は「経便列車」で結ばれ、活発な経済活動が行われていました。

 その活況ぶりを物語るのが日本銀行福島出張所の設立です。福島市には東北初、仙台よりも早く日銀の出張所が設けられました。当時の重要輸出品であった生糸や米の有数の集散地であった福島は、東北の金融の中心地だったのです。

 しかし絹織物は相場によって大きく左右され、価格は安定しませんでした。また、戦後の高騰が物価高を引き起こし米の価格が暴騰、その後急激に下落し米騒動が起きるなど、庶民の生活は困難を極めていたのです。

※日本銀行福島支店旧店舗(大正2年完成)

※日本銀行福島支店旧店舗(大正2年完成)

 その活況ぶりを物語るのが日本銀行福島出張所の設立です。福島市には東北初、仙台よりも早く日銀の出張所が設けられました。当時の重要輸出品であった生糸や米の有数の集散地であった福島は、東北の金融の中心地だったのです。

 しかし絹織物は相場によって大きく左右され、価格は安定しませんでした。また、戦後の高騰が物価高を引き起こし米の価格が暴騰、その後急激に下落し米騒動が起きるなど、庶民の生活は困難を極めていたのです。

もうひとつの特産品「山木屋炭」

 絹産業が隆盛を誇った川俣町。人が集まるところには燃料需要が発生します。川俣町中心部から114号線を13キロほど下った山木屋地区(当時は安達郡山木屋村)は、かつて「やまこや」と呼ばれ、薪を産出し、木炭が焼かれていました。山木屋の木炭は「山木屋炭」と呼ばれ、江戸時代からこの地域の特産物のひとつとなっていました。江戸時代には上物として二本松城下に売られ、江戸屋敷にも送られていたのです。

※炭が産出された山木屋地区

もうひとつの特産品「山木屋炭」

※炭が産出された山木屋地区

 絹産業が隆盛を誇った川俣町。人が集まるところには燃料需要が発生します。川俣町中心部から114号線を13キロほど下った山木屋地区(当時は安達郡山木屋村)は、かつて「やまこや」と呼ばれ、薪を産出し、木炭が焼かれていました。山木屋の木炭は「山木屋炭」と呼ばれ、江戸時代からこの地域の特産物のひとつとなっていました。江戸時代には上物として二本松城下に売られ、江戸屋敷にも送られていたのです。

※山木屋の炭焼き小屋

 第一次世界大戦中の木炭は、石炭などの燃料がすべて軍需用に取られたため、庶民にとっては必需品であり、自動車やバスまでも木炭が燃料となっていました。やがて木炭も大事な軍需品のひとつとなり、政府から増産を命ぜられ、山木屋では村をあげて炭焼きをしていました。年少児童も学校を休ませ奥山から炭俵をかつがされ、老人は炭俵を編むのに日夜もなかったと言います。

※山木屋の炭焼き小屋

 第一次世界大戦中の木炭は、石炭などの燃料がすべて軍需用に取られたため、庶民にとっては必需品であり、自動車やバスまでも木炭が燃料となっていました。やがて木炭も大事な軍需品のひとつとなり、政府から増産を命ぜられ、山木屋では村をあげて炭焼きをしていました。年少児童も学校を休ませ奥山から炭俵をかつがされ、老人は炭俵を編むのに日夜もなかったと言います。

 産業の花形である絹と違って、地味ながら確実に需要がある「燃料」の木炭。第一次世界大戦が終わり軍需はなくなりましたが、地域での生産体制は整っていました。そこに目をつけたのが、初代社長である小林寿四治です。

 寿四治が燃料を商売にするきっかけは、意外なことに川俣の絹でした。日中戦争前の関東軍に従軍したあと福島に戻り、塩の専売の会社で働いていた寿四治は、川俣によく仕事で来るようになり、冬期の間、薪炭の製造過程で出る柴木を集め燃料として売り始めました。当時、柴木は焚き付け用燃料として家庭用によく使われていたのです。最初は冬仕事だった商売は次第に大きくなり、柴木より高く売れる薪炭が主力となり山木屋に通うようになりました。

※初代社長 小林 寿四治

※初代社長 小林 寿四治

 産業の花形である絹と違って、地味ながら確実に需要がある「燃料」の木炭。第一次世界大戦が終わり軍需はなくなりましたが、地域での生産体制は整っていました。そこに目をつけたのが、初代社長である小林寿四治です。

 寿四治が燃料を商売にするきっかけは、意外なことに川俣の絹でした。日中戦争前の関東軍に従軍したあと福島に戻り、塩の専売の会社で働いていた寿四治は、川俣によく仕事で来るようになり、冬期の間、薪炭の製造過程で出る柴木を集め燃料として売り始めました。当時、柴木は焚き付け用燃料として家庭用によく使われていたのです。最初は冬仕事だった商売は次第に大きくなり、柴木より高く売れる薪炭が主力となり山木屋に通うようになりました。

川俣と山木屋との出入口に店を構える

 それまで山木屋では、炭焼き人がそれぞれ個別に販売をしていましたが、効率が悪かったため、炭焼き仲間と相談して、買い上げてまとめて小売店へ売る卸売りを始めました。

 小林家には寿四治が商売を始めた日から記入した「家系実記」という日誌が残っています。これによると起業したとき寿四治は25歳。資本金は430円、現在の価格で約130万円ぐらいです。

※小林家に残る家系実記

川俣と山木屋との出入口に店を構える

※小林家に残る家系実記

 それまで山木屋では、炭焼き人がそれぞれ個別に販売をしていましたが、効率が悪かったため、炭焼き仲間と相談して、買い上げてまとめて小売店へ売る卸売りを始めました。

 小林家には寿四治が商売を始めた日から記入した「家系実記」という日誌が残っています。これによると起業したとき寿四治は25歳。資本金は430円、現在の価格で約130万円ぐらいです。

※木炭を出荷する様子

 川俣から山木屋村への出入り口に店を構え、山から下りてくる炭焼き仲間から買い取って量をまとめました。売り先は地元に留まらず、東京への販路も開拓しました。川俣町は絹織物の発展のおかげで鉄道も整備され、すでに東京への物流経路を持っていました。それを利用し、木炭を東京の炭問屋に運んだのです。

※木炭を出荷する様子

 川俣から山木屋村への出入り口に店を構え、山から下りてくる炭焼き仲間から買い取って量をまとめました。売り先は地元に留まらず、東京への販路も開拓しました。川俣町は絹織物の発展のおかげで鉄道も整備され、すでに東京への物流経路を持っていました。それを利用し、木炭を東京の炭問屋に運んだのです。

寿四治の努力と商売の発展

 良質の山木屋炭は東京でも順調に売れ、商売は飛躍を遂げました。商売を開始して4年後の大正13年には資本金は3,616円(約1,100万円ぐらい)になっていました。

 起業の翌年(大正10年)には塩の元売り業の免許も取り、これは専売品であったので伊達郡内に安定的に販路を確保することに貢献しました。

 同じく大正10年には6歳年下の齋藤サヨと結婚します。サヨの実家は松川町。当時、松川町は奥州街道の宿場町として栄えており、「蝋燭屋」という旅籠(現在の金水晶酒造店)の当主の従姉妹で、親は薬屋を営んでいました。夫婦は三男七女、計10人の子宝にも恵まれました。しかし当時は子供の死亡率が高く、長女は生まれてすぐ、長男は二歳、そして四女は五歳で亡くすという不幸にも見舞われましたが、サヨとともに七人の子育てをしながら仕事に精を出しました。一家の主として慎重な寿四治にとって、倹約家でありながら積極的だった、妻のサヨの内助の功は大きかったようです。

※当時19歳の寿四治

※結婚時のサヨ

寿四治の努力と商売の発展

※当時19歳の寿四治

 良質の山木屋炭は東京でも順調に売れ、商売は飛躍を遂げました。商売を開始して4年後の大正13年には資本金は3,616円(約1,100万円ぐらい)になっていました。

 起業の翌年(大正10年)には塩の元売り業の免許も取り、これは専売品であったので伊達郡内に安定的に販路を確保することに貢献しました。

※結婚時のサヨ

 同じく大正10年には6歳年下の齋藤サヨと結婚します。サヨの実家は松川町。当時、松川町は奥州街道の宿場町として栄えており、「蝋燭屋」という旅籠(現在の金水晶酒造店)の当主の従姉妹で、親は薬屋を営んでいました。夫婦は三男七女、計10人の子宝にも恵まれました。しかし当時は子供の死亡率が高く、長女は生まれてすぐ、長男は二歳、そして四女は五歳で亡くすという不幸にも見舞われましたが、サヨとともに七人の子育てをしながら仕事に精を出しました。一家の主として慎重な寿四治にとって、倹約家でありながら積極的だった、妻のサヨの内助の功は大きかったようです。

※木炭出荷の様子

※現在の本社地へ移転時の本店

 今とちがってフォークリフトも大型トラックもない時代、中山間地からの薪炭の集荷作業、それを荷造りし、出荷する作業は骨の折れる仕事で人手が必要でした。そのため町外の従業員も住み込みで雇い、生活の世話もしなければならなかったのです。

 「和をもって積極的に努力せよ」。今なお残る社訓は、初代寿四治の商売における地域との関わり方と仕事への取り組み方を示すものです。

 「商売一筋、真面目で実行力がある」。現社長小林仁一の目に祖父小林寿四治はそう映っていました。派手さはないけれど確実に決めたことはやり遂げる。この寿四治の、人の話は丁寧に聞いて、調和を大切にしつつも、チャンスは逃さない進取果敢な性格は、そのままコバヤシグループのDNAとなり、いまなお私たちの日々の活動の中に受け継がれているのです。

※木炭出荷の様子

今とちがってフォークリフトも大型トラックもない時代、中山間地からの薪炭の集荷作業、それを荷造りし、出荷する作業は骨の折れる仕事で人手が必要でした。そのため町外の従業員も住み込みで雇い、生活の世話もしなければならなかったのです。

※現在の本社地へ移転時の本店

 「和をもって積極的に努力せよ」。今なお残る社訓は、初代寿四治の商売における地域との関わり方と仕事への取り組み方を示すものです。

 「商売一筋、真面目で実行力がある」。現社長小林仁一の目に祖父小林寿四治はそう映っていました。派手さはないけれど確実に決めたことはやり遂げる。この寿四治の、人の話は丁寧に聞いて、調和を大切にしつつも、チャンスは逃さない進取果敢な性格は、そのままコバヤシグループのDNAとなり、いまなお私たちの日々の活動の中に受け継がれているのです。

連続テレビ小説「エール」の
舞台となった川俣町

 絹で栄えていた川俣町には、昭和初期にいち早く銀行が進出しました。福島商業学校(福島県立商業高等学校)を卒業した古関裕而は、川俣銀行へ勤務。町内の寄宿先である、母の生家から通勤しながら、作曲の勉強を続けていました。
 その後、日本人としての初の国際的作曲コンクールに入選。その後結婚し、夫婦共々上京し、作曲家として本格的なスタートを切りました。  

© 2020 小林グループ